『本と鍵の季節』読了。米澤作品がホームズ・ワトソン形式を取らないのはなぜ?
ここ数年、小説離れでした。YouTube などで動画を見ることが多くなり、本を読むとしても、専門書とかビジネス書ばかり。
そういう意味では、米澤穂信『本と鍵の季節』は小説リハビリにはぴったりでした。さすがの面白さと文章の読みやすさで、さくっと読み切ってしまいました。
今回は『本と鍵の季節』を読んで思ったことなどを書こうと思います。
『913』を読んでの衝撃。主人公が探偵ではない!?
本作は6つの短編集(登場人物は共通)ですが、1作目『913』を読んだときにびっくりしました。
これまでの米澤作品と違い、事件を解決するのが主人公ではないからです。
僕が米澤作品を好きだったのは、探偵の1人称視点で描かれるからでした。
推理小説は一般的に、ホームズ・ワトソン形式で書かれることが多いです。「ホームズ・ワトソン形式」というのは、探偵であるシャーロック・ホームズが手がかりを発見して推理を進める様子を、共に行動するワトソンからの視点で綴ることです。
簡単に言うと、文章を事件を解決する本人が綴るのか、第三者が綴るのか、という違いです。
米澤穂信はなぜホームズ・ワトソン形式をとらないのか
僕が米澤作品の1人称視点を好きな理由は、実は米澤さん本人が語っています。
僕の友人が米澤さんの講演会(2013年・中央大学)に行って、かつ質疑応答の時間に質問をすることができました。
そのときの内容が、このようなものでした(友人から聞いたことを、記憶を頼りに書いているので、細部は正確ではありません)。
Q. 米澤さんはどうしてホームズ・ワトソン形式を取らないのですか。主人公の一人称視点で語り、かつその主人公が探偵である場合、主人公の推理が解決に至る部分をあいまいに書かないといけなくなり、どうしても文章として無理が出てしまいます。それでも米澤さんが一人称視点にこだわるのは、理由があるはずだから、お聞きしたいです。
A. 私はその質問に答えることができて嬉しいです。理由は、事件が解決するのと同時に、主人公が成長する過程を描きたいからです。
ミステリ小説を1人称視点で描く手法は、米澤さん以前から「ハードボイルド」と呼ばれて存在しています。しかし、登場人物をアイデンティティの不確立な高校生に設定し、主人公の人間的成長を描写するためにその手法を活用しているところが、米澤作品の魅力だと僕は思っています。
『本と鍵の季節』はダブル探偵。割れる解釈と、ぶつかる2人。
『913』以降を読むとわかるのですが、本作はホームズ・ワトソン形式ではありません。
主人公の堀川と友人の松倉が、ふたりとも探偵なのです。
探偵なので、ふたりとも同じ答えにたどり着く。
しかし、2人の性格の違いから、答えについての解釈は大きく割れるのです。ミステリ小説的に言うなら、ハウダニット(犯行の手段)は意見が一致するものの、ホワイダニット(犯行の動機)は一致しません。
そして、2人は言い争いになる。
この会話の中で、主人公は様々な経験をします。松倉と冷静に話し合うにはどうするか。犯人の扱いをどのように松倉と納得できるようにするか。
僕の大好きな「主人公が成長する米澤作品」は、本作でも健在。安心しました。